The Will to Live

昨日、ミッチィが、教員として正式に採用されたというめでたいビックニュースがあったので、手放しに喜ぶと、ふと、彼女は涙を流して泣き始めた。


「今の高校を辞めなきゃいけなくなるから辛い」


「あの子たちの顔を思い出したら泣ける」


なんてことだ。僕が毎日、実家に軟禁状態の折、君は、毎日そんな崇高な経験をしていたのかと思うと、非常に羨ましくなった。さらに、難関の試験に合格したのに、悔しがっているという事実によって、二重に、二倍の羨ましさが募った。


その間、僕は、この不都合な体の状況と闘いながら・・、
と、書くと、いかにも大げさだが、トイレに行くときに、今日は転けずにいけるかな・・と言った程度のものであるが、毎日、この不自由な体にイライラしている。この間、ついに医者に、「治せないなら、偉そうに診察するな」「遠い道のりを来る必要性が感じられないから、もう予約はいらない」とまで、言い放ったのだった。


この不都合な惨めな体。動かなくなった脚。(イスからも転げ落ちる)バランスがナと取れなくなった体。雄弁にしゃべることの出来なくなった口。


そして、今後も、どんどん症状は進行していくという事実。医者に、行きたくないのは、もちろん、遠いからってこともあるが、やはり、入院患者に自分の未来の姿を見ることが一番嫌なのだ。


ほんと、生きてくのがしんどい。


その反面、とある友人に、メールしたこと。
「病気になる前よりも幸せかもしれない」


それも、確かにある。
いままで、表面的にしか見えてなかった、人間性の本質が、今は、僕に対する行動の仕方と、言葉の使い方や、その細かい表情から手に取るようにわかる。それに、"A friend in need is a friend indeed"と、日々思うのだが、本当の友達は、たとえ遠くても、繋がっているという事実をまざまざと感じる。大切な人の存在に気づくだけで、人は幸せなのではないかと思うと、僕は幸い、その幸せを見つけることが出来たと思うわけである。ちょっと変わったヤツばっかりだけど、ファンキーにロックしてる友達がいて、そして、なぜか、そういうヤツらは、根が優しい。今まで、そういうヤツらとしか出会ってこなかったので、「根が優しい」の比較対象はないが。主観的に・・。


それに、家族と彼女の大事さを感じる。どこまでも、ついて来てくれるといった安心感がある。
家族のことを書くと、お涙頂戴風になるが、ウチの家族は、なんだかんだ言ってロックしてるところがあると思う。僕が、肺炎で入院してるとき、僕の京都のアパートの共有スペースで、同居人2人と蟹を肴に飲み明かしたという話を、僕はだいぶん後になって聞いた。やはり、食べ物の恨みは、根強いらしい。


いやはや、暗い話になってしまって申し訳ないっす。
でも、本人は書くことで幾ばくか気持ちが楽になっているので、お許しください。