「自分を語れる人」と「自分を語ってもらっている人」

グダグダな議論が繰り広げられる鶴見斉(『完全自殺マニュアル』の作者のPodcast
http://www.voiceblog.jp/freedom/
鶴見の発言は聞いてて面白いとは思うのだが、自称アナーキスト神長恒一というゲストの人の無垢で無知な発言によって、台無しになってるボイスブログ。

こないだ、SORANOという浅野忠信監督・主演の、グダグダドキュメンタリー映画を見た。浅野忠信の映画は、PICNICを始めとして、けっこう好きで見ているのだが、この作品は、「フィクションこそノンフィクション」とか、さも"アーティスティック"なテーマで撮られたものだった。なんか、よくわかんねーなって思ったんだけど、浅野忠信のインタビューを聞いても、うーーーん、尚更わかんねーなという感じだった。唯一、理解できたのは、Shing02というラッパーのインタビューだけだった。


誤解を恐れず語ると、人間は(特に日本人には)「自分を語れる人(Clear)」と「自分を語ってもらっている人(Obscure)」の、2種類いるなと思う。なぜ、「日本人限定」と言うかというと、日本は、「カルチュアル・スタディーズ」の産みの親、スチュアート・ホールの言う、「ハイ・コンテクスチュアル」な社会だから。ハイ・コンテクスチュアル/High Contextualとは、つまり、「文脈」が重要という意味で、すなわち阿吽の呼吸が大事な社会。「空気」を読める社会。まあ、それは日本語の特質とも言えるが、すなわち、言葉で相手に自分の考えを詳細に説明する必要がない社会。歯に衣着せずに言うと、鶴見やShing02は、「自分を語れる人」で、アホー、いや、麻生みたいな人と言ったら失礼かもしれないが、神長や浅野は、どうやら「自分を語ってもらっている人」だろう。それは、周りの誰かの「語り」によって、語ってもらっているタイプの人だろう。

まあ、あくまで日記なので詳細な記述は避けますがw


僕にとって「自分を語れる人」によって作られた作品は、見ごたえがあり、聴きごたえ、接しごたえがある。もちろん、読みごたえがある。作品自体の主義主張が、作品がどんな種類であれ、「言いたいこと」が伝わってくる。その、「言いたいこと」をキャッチ出来るかどうかという点において、頭がいい/鈍いの基準なのだろう。残念ながら、その点において、往々にして僕は彼女に劣っていることが残念で仕方ない。



これは、SORANOでのインタビューとは違うが、
やはり明確に自分を語っていると思った。