「当たり前」の幻想

情報の海を延々彷徨ってると、何が良くて何が悪くて、何が正しくて何が間違っていて、何を信じ、何を疑ったらよいか、といった疑問が生じる。

「みんなの意見はおおかた正しい」世界、マスコラボレーションの世界での、思想の自由は果たして成功するのだろうか。一見、民主的に見えて、マスというのは厄介だ。メディア研究の、ウォルター・リップマンが、"Where all men think alike, no one thinks very much."(皆が同じ思考だとするならば、誰も考えていないことと同じである[ゆうぷぺ訳])と議論していたことを想起する。一方では、H.Dソローの『市民的不服従』においての、人間(大衆)の良心を信頼しながら、一方では、その民主的なもの、つまり、意思/合意決定における多数決の危うさを感じたりすることがあるという、二律背反的な構造を民主主義は露呈し得る。

まあ、そういう意味で、統計的な調査は当てになるときももちろんあるが、当てにならないときもある訳で、しかしながら、当てになるか、当てにならないかを判断する能力をつけるのは難しいと思う。

iPodの登場によって、それまで、さほど音楽好きで聴いてたわけでもない人が、その供給の高まりによって、自らのライフスタイルすらも変化させていく需要システムが一般化してると思う節もある。もはや、供給は、需要の創出から呼応して始まる世界である。っそれは、マーケティングの基本なのだが。すなわちいかに、その商品を必要だと思わせるか、その商品を買ったら、いかにライフスタイルが変わって、日常生活が新しく蘇るかという、いわゆる「必要」を創出することによって、初めて、存在価値がある。存在価値は、捏造され、幻想化させられ得るのである。

"When distant and unfamiliar and complex things are communicated to great masses of people, the truth suffers a considerable and often a radical distortion. The complex is made over into the simple, the hypothetical into the dogmatic, and the relative into an absolute." Walter Lippmann

(分かりにくい難問が大衆に伝わるときは、真実はよく、大幅に歪められる。その時は、複雑な問題はシンプルな問題に、仮定的な言論は独善的な論調に、相対的な問題は絶対的な問題へと変換されて伝えられる。[ゆうぷぺ訳])

まずは、みんながそう言うから・・・という「当たり前」の幻想に、克たなければならない。