がんばらなくて良い社会

昔、読んだ本で、「がんばらなくて良い社会の提唱論」みたいなのがあった。ちょっと調べてみたが、その本を読んだのがあまりに昔で、どうにもその白くオシャレな本の装丁くらいしか覚えていないし、内容もところどころしか覚えていないのだが、その本を通して議論されていた通奏低音が今も僕の胸に響いている。つまり、物事の価値観は、いつも決まって相対的であり、だから故に、自由とは「がんばらなくて良い」ことであることに集約されるのではないかという論点である。がんばっている人にとっては、身も蓋もない言い方だが、がんばることってのは、すなわち、不自由の結晶なのである。特に、日本人は必要以上にがんばる傾向があると思われる節がないこともないと思われる。相対的であれども、がんばることによって、自分を追いつめるということは本末転倒の所為であることは間違いない。

何の因果か、神経難病によって10年前には皆目予期せぬ状況下に置かれた僕にとって、「がんばらなくても良い」社会に今、生きさせてもらっていることは幸運と言えなくもない。なぜなら、がんばりたくてもがんばれないからだ。ある意味、それは、自由を強制されているということになり、ちょっとちぐはぐではあるが、本来強制されるものではない「自由」を強制されていることになるのだろう。だが、肉体的には、不自由を被っていることは、明らかである。つまり、とても不思議な論点ではるが、肉体的な不自由と引き換えに、精神的な自由を得ているわけである。

もちろん、労働を通して、さまざまな経験をしている同年代に対して嫉妬の目線がないこともないが、理解ある彼女や理解ある両親、僕のことを理解してくれようと努力してくれてる友人たちに支えられて、僕はなんとか「がんばらずに」今日も生きている。「がんばらずに」生きている証拠に、僕は、ここ半年ほど、起きたい時間に起き、寝たい時間に寝ている。Amazonで買ったり、共有ソフトでダウンロードした、読みたい本/漫画を読み、観たい映画を観て、聴きたい音楽を聴き、好きな喫茶店で、長時間考え事をし、ケーブルテレビで、MTVやDisccovery Channelをダラダラ観たり、酒を昼間から呑んだりしている。腹が減ったら、マクドナルドへジムニーで行き、大好きなビッグマックを頬張っている。ついでに、2ちゃんねるの「痛いニュース」を見て、失笑し、こいつらより俺のほうがマシだなんて思ったりしている。うん、他人の不幸は密の味に違いない。ついでに、詳しくは書けないが、あんなことやこんなこともしている。

まあ、自由というよりは怠惰の生活だが、つまり、始めに言った、がんばらなくても良い社会を自らが恣意的に実践しているわけだ。

本当に、数えきれないほど、この世の中には、人をエンターテインするものが多いし、それらは偏に、がんばっている人が多いおかげで提供されている。つまり、今日の結論は、がんばらないススメなのだ。この世の中には、がんばっている人が多すぎる。

良い作品は多すぎるし、凝ったサービスは多すぎるし、美味しいものは多すぎる(僕にはビッグマックが最高の食べ物なのだが・・)けど、それらを楽しむ充分な時間がない。需要と供給から鑑みるに、供給が多すぎるのだ。如何にして人を愉しませようという気概で、仕事をしている人が多すぎるのだ。

多くの人は、そのがんばった仕事から還ってきて、疲れて寝てしまうことによって、自分が存分に愉しむ時間がなくなって、人生の大半を人を愉しませることに費やす。仕事が愉しく面白いという思いたい日本人特有の価値観も分かるが、仕事以外の愉しく興味深いこととの比較において、残念ながら、対価以外で楽しいのは嘘だと不詳だが考える。

みんなどうか、もうがんばらないでほしい。。
追いつめられて五体満足のまま自殺なんてもったいない!死ぬのは不具な俺だけで充分だ。
残念ながら、この話にもオチがない。

と、まあ、くだんの本が見つかったので紹介。。

脱芸術/脱資本主義論―来るべき“幸福学”のために

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