ヨーロッバの軌跡

諸事情でmixiやめちゃったので、こっちでちらほら更新していくことにする。


まあ、誰も読まないだろうから、ヨーロッパ旅行の日記でもコピペしておくか。

ちなみに写真は適当に並べたので、特に関連性がないことが多いです。



<ヨーロッバの軌跡>



大阪から台北まで2時間
台北に6時間
台北からバンコクまで3時間
バンコクに1時間
バンコクからアムステルダムまで14時間

長旅だ。ただいま、疲労困憊中の最後の14時間のフライトの只中である。


台北の空港は、免税店街が広くて、広過ぎて、6時間もの空き時間に見て回ったが、それでも見飽きたらないくらいだった。


さっき見た同じような店が、若干違ったバージョンで次々と現れて、僕らを楽しませた。


少なくとも、ナイキショップ、アディダスショップ、ソニーショップは、2つずつあった。

「日本よりもヤスイヨー」という店員に乗せられて、PSPを買いかけたが、カードの支払いが滞っていたため支払えずあえなく買うのを見合わせた。


けど、iPhoneを持ってるからか、そこまで携帯ゲーム機に魅力を感じないので、まぁ、俺のことだから、想像以上に時間を無駄に費やすことになるであろう、駄目な衝動買いを避けられたのは、あとあと考えてみれば、最良の結果だったかもしれない。


あと、台湾への中華航空の便内で気づいたのだが、スチュワーデスの女性は僕らのことを、一目見て日本人だと一瞬のうちに識別し、「チキンですか?サカナですか?」と聞いてきた。


片言だったので、中国人だと思われたが、その都度、見事に素早く中国語と日本語を使い分けていたので、日本人の顔には「日本人」とでも書いてあるのか?と思ったが、何かしらの外見的特徴がそれを判断、識別する契機になっているみたいだ。

台北の免税店でも、似たようなことが、何度かあった。
彼らは、「イラッシャイマセ」とハナから、僕たちを日本人と決めつけてかかってきた。日本人が嫌いな韓国人にこう言ってしまうと、侮辱されたと感じてなにされるかわかんないから、日本人っぽいアジア人に「イラッシャイマセ」と言うのも気がきではないのだろうと想像する。


中国人スチュワーデスは決まって、白人の客に話しかけるときは、Excuse me, "SIR".と、はじめるが、少なくとも僕に話しかけるときは、一度もsirは付かなかった。根深い何かしらを感じた。中華航空大韓航空に搭乗の際は、sir/ma'amの、語尾のリスニングを注意しながら聞くべきだ。






ここから、アムステルダム


カイルは、ウィンストンホテルで出会ったスペイン人。自家栽培の大麻を自慢してきた。アムスでわざわざ自家製大麻を自慢せずとも思うが、とにかくカイルが作ったジョイントは、今までで一番キツかった。けんちゃんは、カイルが25歳と答えたあと、ハシシを巻きながら「俺は25歳でいったいなにしてんねやろ」的な困惑した表情を見逃さなかった、と言っていたのがおもろかった。

まぁ、世の中広しと言えども、アムスほど、障害を肯定的に捉えられる街も少ない。というか、ない。
昨日は、それを踊りながらマジで感じた。まだ明るい...、と言っても夜10時までアムステルダムは明るいが、街中で、爆音でハウスが聞こえ始めて、途端に、キマってるネーちゃんやら、ガンジャではない飛びを見せてるニーちゃんから、おばさん、おじさん、白髪のおばあちゃんまでもが、ノリノリで踊り始める。僕は、車椅子のアジア人という、ダブルのカードを振りかざしているみたいで、若干嫌ではあった。だか、結局楽しかったので良しとするが、俺を取り囲んで、みんなはダンスを始めて、良い感じの時間だった。と、表現しようないけど、つまり、そういうこと。ほんと、ダンスするデカダンスだった。

ストーンズカフェのオーナーとも仲良くなった。たぶん、この日が一番楽しかったのは間違いない。
ゲイやレズビアンの結婚も認めている寛容な国だけあって、マイノリティの主張を認めやすい土壌がそうさせているんであろうが、それにしても、なんて気持ちの良い国なんだろう。車椅子の自分がこんなに誇らしく感じられることは、今まで一度もなかった。

アムステルダムのすべての公共施設では、車椅子の人は一切の課金は受けない。ゴッホ美術館など、なんの証明書も見せずにタダで入れた。車椅子だというだけで。すごく優遇されている感じが嬉しかった。

イベントで知りあったビリーに、「アムステルダムの自由なとこが好き」と言うと、「アムステルダムの自由はフェイクだ」と言う。

彼がなせフェイクだと思うかについては、主観的過ぎて意味がよく分からなかったので、割愛するが、ビリーは、地元アムスっこらしい。


事実として、アムステルダムの自由度は世界の群を抜きまくっている。
街は、コーヒーショップ(大麻を販売、喫煙空間)だらけで、ポルノ〜ゲイものまで選び放題、なんでもござれで、「飾り窓」と呼ばれる、まぁいわゆるショーケースに裸の女性が入っていて通過するたびに、こっちを悩殺の視線で見てくるという、RedLightDiscrictもある。

でも、歌舞伎町みたいな、特有の下品さに包まれているかというと、オランダという、ヨーロッパイズムに囲まれているからか、自然とその下品さはない。


普通、そういう類いのエロ系のことを街中の人に聞くと、若干含み笑いで応えるのが通例だが、アムスの人は、ごく自然に「あ、あっちだよ」と、答えてくれる。

自由ボケしてしまっているのだろうか。さすがに。


アムステルダムはほんといかれた街だ。アムスのコーヒーショップは、煙草禁煙のところが多い。煙は煙でも、別物を奨励してくる。というか、激励される。あと、面白いのが、激励してくる割に、キツいものには手を出さない感覚である。オランダが、現政策に踏み切った理由として、ハードドラッグの流行にあった。ヘロインなどのハードなドラッグから、目を背けさせようと始まった大麻合法化の試みは見事に効を奏していると思われる。

コーヒーショップババで、設置してあったヴェポライザーで、ガンジャを吸おうとしたら、みんな不思議そうな視線で見てた。いやぁ、それはキツいよーと言わんばかりの表情で見てた。

次の日、朝から仕事だから、軽く吸いたいとかいう発想からみたいだ。ほんと、街中をくわえガンジャで歩く人もたくさんいるし、ほんと、大麻に対するイメージのカルチャーショックを受け過ぎてしんどい。


今日、「スケベニンゲン」というビーチにきた。オランダには、ヌーディストビーチがあるということを、人づてネットづてに知ったけんちゃんのたっての希望をのんで、愛しのアムステルダムを離れ、スケベニンゲンのあるデンハーグへ。
デンハーグは、ロッテルダムに続くオランダ三位の商業都市らしい。確かに、駅は大きかったが、金沢を思い出すようないわゆる地方都市で、やはり地方都市の人間は、どこも変わらないってのが、印象的だった。
例えば、特有の、いわゆる事なかれ主義とでもいうか、車椅子の僕を見て見ぬ振りをする感じは、なぜか、金沢らしさを感じた。田舎はだから嫌なのである。いろんな人がいろんな事情でいろんな問題を抱えながら生きているということを、理解しようとしない姿勢に、申し訳ないが、前近代的な思考の産物を発見せざるを得ない。


だが、結局寒過ぎたのか、ヌーディストは1人も見つからず、アムステルダムにもどったら、アムスでは、何やらサイケなイベントがあったらしいのが、ショック。スケベニンゲンの称号を得るために、貴重な一日を無駄にした感は拭い去れない。


それにしても、こんな観光地に日本人観光客が少ないのは、日本人のなかに、何かしらの自主規制の意識、概念が働いているとしか思えない。日本人だろうが、何人だろうが、その国の領土外でその国の法律は適法されない。つまり、その時点で知るべきだが、法律は絶対ではない。絶対ではないことを、ダメ、絶対というのだから、ちゃんちゃら可笑しい。まぁ、覚醒剤はダメ絶対だと思うが。

シッコは、日本マニアのオランダ人。外大のDimitriを思い出すような、似非修行僧的な出で立ち。昨日、Club Upで仲良くなった。でも、いつか知ることになるだろうが、シッコという名前の恥ずかしさは、俺から伝えない方がいいだろう。

Club upは、地元アムスっ子が集まるクラブで、あり得ないくらいの人が集まっていた。熱気の凄さと言ったら、もう何もしていないのに、そこに居るだけで体が汗でずぶ濡れになるくらいだった。


日本でも、ドミトリーでよく経験することではあるが、俺の体の障害を見て、酔っ払っている、もしくは、ラリっているのではないかという疑惑。所はオランダということで、ラリってるのではないかという疑惑が必然的に強くなる。
今朝も、二回も聞かれてしまった。二回とも、"handicap"で全て事足りたのだったが。


なんか、大麻飽きてきた。


むかし2ちゃんで、大麻なんて厨房のお遊びって言うヤツがいて、すげーこというヤツもいるなーと思ってたが、今ならそいつに共感できる。こんなもの、ドラッグでもなんでもない。


アムステルダムのコーヒーショップのキツイと言われているガンジャマリファナは一通りの方法で試したが、酒でいうと、大麻はビールみたいなもんかな、と思う。ゲートウェイ的な。少なくとも、これを覚醒剤と同じ基準で扱うのは間違ってる。まぁ、そんなことを日本で言ったところで、相手にされないのは、百も承知。

オランダは、それを逆手にとって観光資源にさえしているところとかは、したたかさを感じざるを得ないが、この、法律でがんじがらめになってしまった世界に、ひとつくらい実験的に新しい価値観を受け入れる国があっても良いんではないかと思った。

ここから、ミュンヘン

ドイツ、ミュンヘン到着。疲れた。2人とも疲弊している。電車での泊まりの移動はマジで疲れる。飛行機より正味疲れた。


アムステルダムでは、けんちゃんに頼りきりだったけど、たぶん今後も同じだろうけど、トイレに行きたいときだけは困る。けんちゃんの顔色伺わなきゃダメなので正直辛い。1人で出来ないことで困ることの第一候補は、間違いなくトイレだ。トイレぐらいは、自分のタイミングで行きたい。
少なくとも、けんちゃんにとっては慣れたものだけど、自分のタイミングで行きたいトイレにいけないことほど辛いことはない。特に、旅行先で。


街は、さっき少し見たが、あまりに疲れていてそれどころじゃなかったので、ホテルのリラックスルームみたいなところで休憩中。

まぁ、アムステルダム以外興味ない俺にとっては、もう旅行は終わったようなものだな。


ミュンヘンは基本的に、何も俺にとって面白いものはない。ドイツでは、日本で言うところの札幌くらいの規模の都市だろうか。今日は、朝からけんちゃんとちょっとキマイ感じだったけど、きっと彼は、ジッとしてるのが耐えられない人なんだろう。とにかく体を動かしていることに喜びを感じる、真性の体育会系なんだろう。そういう意味では、大輔よりタチが悪いw
まぁ、ドイツにオランダは、夜も明るく安全なので、存分に俺が寝てる間体力を消耗してくれたらいいと思う。


今日は、やけにミッチィのメールアドレスにあるHerzlichという言葉が目につく一日だった。何枚か写真を撮った。Herzlichがどういう意味か忘れたが、こんだけ頻繁に街中に現れる言葉が悪い意味な訳ない。きっと、Happyか何かだろう。

ドイツに来て思うのが、やたらと日本人やアジア系が多いこと。それと、観光客の雰囲気的には、排他的だ。オランダと比べると、である。何人かと話したが、友達になれそうな人はいなかった。アムステルダムロッテルダムでは、日本人やアジア系の人が珍しいので、話しかけられる率が高いのがあるが、こっちでは珍しくもないためか、話しかけられることはあまりない。それにしても、けんちゃんは、英語を半分くらいしかしか理解していないような気がする。話半分だ。けど、行動力がたくましいので、カバーできていると思われる。ほんと、俺は行動力ないなwまぁ、病気だから仕方ないか。



ほんと、この病気はイラつく。


旅行中何度も発狂しそうなくらいイライラが募った。むかし、オーストラリアで、日本人の観光客がBenson & Hedgesという煙草を注文したくて、NewsStandで何度もトライしてたが、結局発音出来なくて見兼ねた隣の俺が助け舟を出した。今日は、それを俺が発音出来なくて、15秒後「マルボロ」と言った。悔しかった。


ドイツはミュンヘンに来たからには、クラシックを聴こうと、オペラのコンサートを予約しようと、予約センターに行くも、既に満席とのこと。何かの流れで、室内楽の演奏を聴くことに。場所は教会。天気は大雨。みすぼらしい格好で、場違い感はかなりあったが、ドレスコードがないと聞いていたので、自信満々で入ったが、かなり場違いな音楽鑑賞で、びしょびしょの服やサンダルを通して、なるほど、こういうことかと思った。客のほぼ100%は、見るからにハイソな白人で、否応無しに僕らずぶ濡れのアジア人は貧乏臭さを感じてしまうのだった。


曲は、たぶんメンデルスゾーン。弦楽三重奏。けど、体の濡れが気になってあまり集中出来ない。「聴衆の誕生」を読んでいるからか、やはりこういうコンサートは、もはや、死んでいる感を受けた。これは化石の音楽だ。そして、この場所に集っている人は、音楽を聴きにきているのではない。自分のステータスを確認しに来ているのだ。


確かに、街中で演奏しているストリートミュージシャンとは、レベルが違う。違った意味の緊張感も伝わってくる。
しかしながら、生きている音楽かというと、作曲家はとうの昔に死んでいて、演奏会を聴きに来ている聴衆である客たちの耳に、既にある音楽を再現しているだけなのである。コンサートに足を運ぶということは、日本もドイツも変わりなく、音楽を聴きたいという主観的欲求ではなく、とても、社会的な行為と考えて違いない。


俺らは、いつしか、演奏をBGM的に扱いはじめていた。けんちゃんは地球の歩き方を、僕はこの日記を。それくらいに考えたほうが、むしろ健全だろう。


雨の中、帰ったのだが、2人ともおもきしずっこけて、最低の帰り道だった。


ヨーロッパの電車は不親切だと思った。ユーレイルパスというのを、持っていないと乗れない路線があったり、ユーレイルパスを持たずに乗ると高額請求されるのだ。


なんにせよ、いろいろ考えること多いから、移動ごときのトリビアルな事件に首を突っ込む余裕のない人は、国内異動、ないしはEU内の移動はしない方が身のためだと思う。まぁ、今まで腐るほど移動してきた俺の言えた義理じゃないが。


ニュルンベルク裁判で有名な、ニュルンベルクを通った。どうせなら、ポツダムもそのうち通過してみたい。


けんちゃんとウチの親父は似ていると思う。とりあえず、細かいところは抜きにして、自分の意見を曲げない点だ。たぶん、言語系の大学に行ったからか、俺には、そういう細かいところを抜きに出来ないところがある。とくに英語において。



ここからフランクフルト。


今日はフランクフルト到着後、街中を見て回った。白人に物乞いされた。衝撃的だった。アムスやミュンヘンと違って危険な街といった印象。街を歩いてると、例のごとく突然の雨。街行く人々の束にまみれて、2人で木陰に隠れた。けんちゃんが言っていたが、木ってすごい!に同感だった。その木に世話になったドイツ人のジーパンに書いてあった"live as if you die tomorrow"という一節に妙に感銘を受けた。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」に近い潔さを感じた。



スチュワートは、シドニーのエンジニア。フランクフルトのユースホステルで出会った。エンジニアだけあって、話が盛り上がってきたかと思えば、無言の時間が続いてけっこう辛かったw神経質そうな外人だった。


タイ人のタオが混じって四者会話。俺たちが話さないのを察して、拙い日本語で俺たちに通訳してくれたが、さすが通訳を生業としているだけあって、意外と正確な日本語にヒビった。けんちゃんは相変わらずマイペースで、分からなくなったら席を立って煙草を吸いに行くから、状況説明をしてたタオは大変そうだった。職業病かと思われるつまらない話を延々と正確に通訳する彼女に驚嘆した。


この宿に来て、人々はいろんな理由で旅に出ていろんな理由でひと所に集まりいろんな理由で旅行を楽しむのだなとふと感慨深く考えたのだった。


この宿は、安宿にしてはバリアフリーだが、少々自由過ぎるところが気に食わない。廊下にたむろす若者たちは、恋話に花開かせて、下のエントランスではハードロックがガンガンに朝まで掛かっているらしい。


まぁ、しかしながら、俺の人を見る目は正しいと思う。基本、つまらないやつの話は、いつまで聞いてもつまらないし、今日けんちゃんと話していて、文系のゴールは、やはり面白い人だと思われることにあると強く思う。


理系のスチュワートや今日出会った理系の日本人の学生の話はやはりつまらない。つまらないかつまらなくないかは、無駄があるかないかに集約されると確信的に思う。人生には無駄がつきものである。無駄を愛せるか、愛せないかによって、面白い人間かどうかが決まる。まぁ、愛するという行為自体無駄なことではある。理系的考え方に則ると。というのが、今日俺たちが出した揺るぎない結論である。


けんちゃんは、さすがにかしこいヤツだ。無駄を愛せるか、愛せないかが面白いヤツか面白くないヤツかを分けるラインだということを、俺が言ったら、瞬時にそれを理解して、さらに、意見を加えた。


やっぱり、同類ということや、障害やモロモロを超えて付き合ってくれるという、俺の無駄を愛してくれるという意味でも、俺にとってはけんちゃんはアツいソウルメイトだ。



パキスタン人のアムールは言っていた。人々はテレビの情報が正しいと思い過ぎて、パキスタンを危ない国だと思い込んでるところがある。だが、実際はそんなことはない。インドと二度の戦争を通して、危ない国という印象が消えない。それは、メディアの情報操作があるそうだ。やはり、メディアの研究はもっとなされるべきだと確信した。


明日の朝、日本に帰るが、今回の旅行は自分探しに相当役立ったと思う。帰りの飛行機の中でぼそっとけんちゃんは「つかれた」とつぶやいたが、それが本音だろう。。